2012年02月09日
東京電力が電気料金の値上げをしようとしています。 消費税率UPと同様、上げる側自ら身を切る姿勢を見せず、ろくなリストラもせずに一等地に事務所を構えながらユーザーに転嫁するような事は通常の民間企業ではありえない話です。
特に中小製造業にとっては深刻な問題です。リーマンショック、円高、震災等々により、既にギリギリまでリストラ等の努力をしてきている上に更に思いもよらない経費負担を強いられるわけです。
いち民間企業である東電のこのような強制的と言って良い値上げが通用してしまいそうなこの国はなんと不思議な国ではないでしょうか?日本は共産主義国でも独裁国家でもないはずです。
東電は国策の原発に起因する事なので・・・。
一方国側は民間企業の判断だから・・・。 お互いのご都合主義で迎合したりしなかったりです。
いったい、今回の原発の責任は誰がどれほど取るのか? このようなあいまいな責任所在の状態では誰も身を切ってまで責任を果たさねばならない、との認識なんか持てないのではないでしょうか?
私はこのような状況を作り出したのはそもそも日本国民の国民性ではないかと思うのです。
責任追及をせず、このあいまいな状況を時の経過を利用して済ませてしまう・・・。
また、そのような事を容認まではしないが時間とともに自然と受け入れてしまう・・・。
私はあいまいが慢性化しているようにしか思えないのですが、この慢性化の原因はなんであろうか? と、ふと思い当ったのが以前ある大学の講義をTVで見た内容でした。
店でご注文は? と聞かれ、「私はうなぎです」 日本はこれで通用します。英語では「I am an eel」 英語圏では通用しません。 要するに日本は世界でも珍しいくらいの多言語国だ、と言う事なのです。言い回し方が非常に多いのです。
この多様な言い回しには、あいまいな事を感じ取ってもらおう、とする言い回しもかなりあると思うのです。
このような環境のなかで、国民性が確立されていき、あいまいに慣れ親しんでしまい、あいまい容認民族とでも言うような国民性になってしまった気がします。
情緒を伝える、繊細な感情を表現する、等々の良い点は多々ありますが、はっきりしない事を平然と言葉に変えて、伝えた気になっている、時間とともに受け入れてしまう等々の欠点にもなると思うのです。 そして、誤解が生じ、最後には必ずと言って良いほど「私はそのような認識ではなかった・・」、「認識の違いです・・」と、言い訳をするのです。
さらにたちが悪いと思うのがこの多言語を巧みに利用しているのが官僚、政治家達ではないでしょうか。
あいまいな表現で決め事を文書化し、自分達に都合の良いようにどうとでも解釈できる言い回しをして利権を必死で守っているのです。 この際、言語学者にでもチェックしてもらい、あいまいな表現は一切使えないようにするべきなのです。
多言語国である危うさを再認識したいものだと思うのです。